少年読本第11編

われは素と薩摩の人なり。世々宅る所は鹿児島市の東方、本立寺馬場にありて、彼れ桐野が晩年に住たりし家と相距ること酷だ近かりき。されば、われ幼かりし時、また曾て略ぼ此の英雄の面目を識る。たしか明治八九年の頃なりしとおぼゆ。群童日ごとに寺尾氏といへる豪屋の門前に寄りつどひ、石を積み地に書がきて遊びたはむる。此際おり/\短髪木履肩に猟銃をかけたる偉丈夫の過るあり。群童をみて破顔微笑し、時に近づき来り、温言を加え、頭をかいなでゝ去るを例とす。

(春山育次郎「少年読本第11編」博文館)

みたいな書き出しで始まる評伝です。友達だった中井弘へのインタビューもあるので充実しています。

父:與右衛門。別府九郎左衛門の娘(菅子)を娶り、三男二女
長男:中村與左衛門邦秋、桐野が18歳のとき、29歳で病で没す。忙しい父母の代わりに桐野を育てたりした。
女:幼にして夭折
次男:中村半次郎利秋、天保9年12月2日生
三男:山ノ内半左衛門種国
女:斉彬に近侍して見遇を被り、西郷の人物を鑑識。西郷を斉彬に勧める。伊東才蔵に嫁ぐ。筆者の友達(伊東祐信)の母にあたる

城下の末端部分で生まれたため裕福な者はおらず、半農民化して生計を立てる家庭も多かったそうです。「吉野唐芋」「紙漉武士」などと揶揄されていました。
中村家は元々25石あったのですが、藩の財政難で父の代に5石に減らされてました。


勉強

與左衛門は和田才助といへる郷先生について、少し学び、ほゞ読書を解する人なりければ、彼始は兄に従ふて句読を授けられしが、後には多く外祖父(別府)四郎兵衛につひて学びけり。四郎兵衛は同里の人にて、近傍に住へりしをもて、彼は日ごとに書をたづさえて外祖父の家にかよひぬ。

(中略)

四郎兵衛は此頃その外孫なる彼を愛すると深かりけれど、教戒はなか/\厳にして少しも假さず。その復習をおこたり、前日の学ぶ所を忘るゝが如きときは、いたく之を責め、さらに読書を課すると多く容易に帰り去るを許さねば、彼は課業の重きに苦みて、頻りに煩悶懊悩すれども、復た如何ともすべからず。斯くて、やう/\にして帰宅を許され、足僅に門の外に出るや否や、忽ち内を顧みて外祖父をのゝしり、馬鹿オンヂョ(老爺)と大呼し去れるぞおかしれけれ。

(中略)

彼は外祖父が授業のやかましきを厭ふこと甚だしく、斯く罵り去りて帰り、明くる日はふたゝび往かむとする色もなきを、彼の母と彼の兄とは、或は叱り或はさとして四郎兵衛の家にかよはせしこと幾たびとも知れ難き程なりけり。

(中略)

仮名交りの漢楚軍談演義三国志などの如き軍書戦記のたぐひは、自ら好みて之を読み、また能く之を談じたり

(春山育次郎「少年読本第11編」博文館)

ほら〜桐野だってお勉強はしてるんだよ〜〜!?と言おうとしたんですけど無理でした。
ちなみに別府晋介は「他の別府氏より入りて斯人(四郎兵衛)の後を嗣げりしなりけり」とのことです。

こうして一応勉強はしていた桐野ですが、父の流罪により「一方ならぬ不幸におちいり」ます。
父が江戸で広敷座という役職にいた頃、さして重大でなさそうな罪を被り免職、食禄も没収、徳之島に流されてしまいます。
はじめの頃は兄が家を支えていたそうですが、桐野が18の時に病で没します。
藩の救済として貧しい15歳以上の藩士には職を授け、4石を与える制度がありましたが、流罪人の子はその恩恵を受けることはできませんでした。
というわけで桐野は自らの水利の悪い土地や他人の土地を借りて甘藷・麦・粟・野稲のたぐいを育てたそうです。荒野を開拓したり山に入って燃料をとったり4人家族を養うために夜も農耕に励んでいました。
厳しい状況にあっても「神色快爽、勇気凜々」だったようで「桐野の元気」だとか言われてたみたいです。
なお中村家の定番メニューは「米粟相混じたるの粥に甘藷を和したる」もの。
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