大正十年山縣公が、宮中重大事件とか何とか云ふ様な問題の為めに、兎角の評を世間から受けられたときの如き、大隈侯は大に山縣公の為めに憂慮し、「政見は政見、個人としては山縣公を助けねばならぬ。」と云つて、蔭に廻つて非常に公を庇護された。その為めに山縣公は御礼として早稲田を訪はれたが、その時は丁度留守中であつた為め、言ひ残されて帰られた。そこで礼儀上其の儘に打棄て置くべきに非ずと、更に大隈侯から山縣公を訪問されたが、其の時の談話は二時間にも渉つたさうである。大隈侯病勢加はるの後、私が小田原に山縣公の病を訪ふたとき、公は当時を私に語り、つひ此の間のやうに想はれる、大隈が来て二時間ばかりも逢つたが、其の中一時間半も話し続け、俺には何も喋らせなかつた。未だあゝした元気の大隈が、俺より先きに病気が重くなるとは不思議のやうだ、大隈はまだ/\此の世に生かして置きたい男なのだが……」

(堀内文次郎「光は東から」忠誠堂)

堀内さんは「実業之日本社 大隈侯哀悼號」でも似た感じというかクマガタ感がパワーアップした談話を残してくれてます。ありがとうございます。毎度引用長くて申し訳ないです。よく考えたら大隈がわざわざ古稀庵まで来てくれた可能性があるんですね……わざわざ小田原まで…小田原に自分の別荘があるとはいえ……小田原まで… inserted by FC2 system